怪談 あるSSIDについて
夏ということで、今回はとある文筆家から受け取った怪談です。
匿名での掲載を希望されているためお名前は出せませんが、ぜひご覧ください。
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ごめんなさい。記事にするのは躊躇われたのですが、どうしても伝えずにはいられなくなり、書きます。
私の家は都内の住宅密集地にあるアパートで、声も電波も筒抜け、プライバシーもあったものじゃありません。それでも、都会ならではの無関心が人々を結びつける前に遠ざけて、普通の生活をしている限りは、痛い目を見ることもありませんでした。
そんな場所で暮らす、私とおなじ孤独な人々にとって、インターネットはどうしても必要な相手なのでしょう。私の端末には、ありとあらゆる部屋から届くWi-Fiの漏れ電波で満たされていて、一覧にはいつも大量のSSIDが並んでいたのです。
フリーランスの私は、仕事がなげれば長い夏休みに入るだけです。そんな中、まもなく八月も終わるというある日、スマホの画面に現れたのは、このようなSSIDでした。
あし
SSIDの名付け方が自由なのは知っていましたが、このような名前にする理由が思いつかず、印象に残っていたのです。とは言え、この時点では特別気にしませんでした。鍵もつけずに不用心だな、とは思いましたが、興味を持って繋いでみるようなこともしません。悪意のある人には何か使い道のあるかもしれない不用心も、無関心な一般人にとっては都会にある無数のほころびの一つに過ぎないのです。
私には私のWi-Fiがあり、いつだって繋いだままです。仕事用のノートパソコンを使うときも、ほぼゲーム機と化したスマホを使うときも、いちいち繋ぎ変えたりはしません。ですから、一風変わったSSIDがあるからと言って生活が変わるはずもなく、いつものように仕事を済ませ、明日生きられる程度に片付けをして、眠りにつきました。
その日、夢を見たと思っていたのです。ふと私のスマホが通知音を鳴らしました。ぼんやりした頭で手にとり、画面を見ると通知欄には
「あし」のダウンロードが完了しました
と残っていました。それでいてその通知が、まるで逃げ隠れるように、見た瞬間に勝手に消えました。
私はそれを、夢を見たと思っていたのです。
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アパート暮らしですが、音の無い時間は存在します。例えば食後、小さなソファーに寄り掛かってスマホをいじっているときもそうです。四方八方の部屋から色んな音は届きますが、私は、自分の空間の音とそれらの雑音を区別して生活することができていました。
ところが、その日から明らかに「他の部屋からではない」音が聞こえるようになったのです。私が座って微動だにしない間に、この部屋の床を軋ませる「何か」の音が聞こえるようになったのです。
その後も奇妙なSSIDは時々目にしました。「あし」を見た次の週、「て」も見ました。接続を避けていましたが、ログを見るとどうやら一度接続してしまっているようなのです。
「くち」も見ました。寝ずにスマホを、半ば監視するように見ていた夜、そのSSIDはただの他人のSSIDに過ぎませんでした。ただ、ひとたび寝たふりをすると、「くち」は勝手に接続を開始し、端末は何かをダウンロード完了する音を立てるのです。
目を離している間、蛇口が勝手に捻られるようになりました。私の部屋に住むそれはより存在感を増しました。視界に入らない限り動けるとでも言うように、私に届くのはいつも音と結果だけでした。勝手に戸棚から出されたコップには水を入れた跡があり、握った形に黒ずんでいました。
私はこの奇妙なSSIDが原因だと、もう気付いていました。けれど、どうにかする手立ては思い浮かばなかったのです。誰かに話して、信じてもらうのは困難でしょう。Wi-Fiを切ったところで、このSSIDを仕掛ける何者かは、意に介さず勝手に繋いで、何かをこちらに送り込んでくるのです。
電波のもとを探そうと、スマホを片手に歩きまわったことがあります。ところが、電波が一番強くなる場所に部屋はありませんでした。それどころか、不自然にコンクリートで埋められていたのです。
管理人にたずねて見ると、そこは確かに以前は部屋だったそうです。何らかの理由で埋め立てたと聞いているが、何せ古いアパートで先代の話だからと、どこかはぐらかすように話を終えられてしまいました。
そうやって迷っている間に「みみ」「かみ」というSSIDを目にしました。そしてとうとう「こえ」にも接続してしまったようなのです。
私はスマホを手放しました。不気味さと、このままでは危ないという直感がもはや上回ったのです。
見るものの無くなった私は時間を埋めるものがなく、日中はあてもなく外を歩きまわって過ごしました。夜はなるべくカラオケボックスや漫画喫茶に、どうしても帰る時は寝るためだけに帰りました。
台風の直撃した夜、仕方なく家で過ごした私は雨と風の音に集中していました。他の音を聞きたくなかったのです。今この家では、足音や、蛇口をひねり、水をのむ、何者かの声が響いているかもしれないのです。イヤホンやヘッドホンで遮音することはできませんでした。そういった機械的なものは「それ」が入り込んで直接話しかけてくるような気がしてならなかったのです。
いつの間にか眠りこけて、目が覚めました。厚いカーテンが覆った部屋は暗く、時間はわかりません。台風が過ぎ、静かでした。
私はその時初めて気が付いたのです。
スマホは確かに手放してもうありません。
しかし、私の仕事部屋にはノートパソコンがありました。Wi-Fiを繋ぐ手立ては、まだあったのです。
恐る恐るノートパソコンを開きます。SSIDの接続とダウンロードを示す通知が次々と現れました。
「こえ」のダウンロードを完了しました。
「いろ」のダウンロードを完了しました。
「ちにく」
「しんぞう」
「がんきゅう」......
ほか、18件のダウンロードを完了しました。
.........
汗の伝う音が聞こえます。私は何かに引っ張られるように、顔をあげてしまい......。
窓の脇、何か薄黒い存在がありました。
「もうすこしだ」
低く、這うような声を聞いた気がしましたが、私はそこで気を失ってしまいました。
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地方へ引越しをした私は、回線の契約をせず、端末も使わず、昔ながらのペンを使った文筆業で暮らしています。聞いた話では、あれほど私の前に現れた奇妙なSSIDを、アパートの住人の誰一人として目撃していなかったそうです。
縁があって、私のこの嘘のような話を記事にしたいと要請を受け、この原稿を書いています。これが掲載されるのはWEBの媒体ということで、少し不安はあるのですが、書かずにはいられなかったのです。
かつてUFOは馬車だったと聞いたことがあります。空を浮かぶ乗り物が発明されて、ようやくUFOは飛行体の形を手に入れたのです。
同じように、怪異や幽霊といった類のものも、形を変えて現代に存在しているのかもしれません。例えば、インターネットを介して人々の前に現れるというような。
あのSSIDは次に、誰かの端末に現れるのでしょうか? それともWi-Fiは手段のひとつに過ぎず、例えばこんなWEBページを媒介にして、別の誰かの部屋へと赴くことも、出来てしまうのでしょうか。私はそれが怖くてなりません。だから、自分の記事をWEBで確認することはないと思います。
私が最初に、記事にするのは躊躇ったと、謝った理由はそれです。
これを見ているあなたの端末に、見覚えのないSSIDやダウンロードの通知がこないことを、祈っています。